グーテンベルク聖書
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最後にグーテンベルク聖書とインキュナブラ関連の多数のリンク先の表あり
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グーテンベルク聖書は15世紀に印刷された、世界最初の本格的な活字本と言われている聖書です。西洋では木版印刷が発達しなかったため15世紀の初頭まで、本と言えば、ほとんどのものが教会の僧侶等が時間をかけて羊皮紙に書いた手書き本でした。そのため非常に高価なものとなり、本は、教会か貴族しか持ちえませんでした。1455年 本の歴史上大革命がおこりました。ドイツ、マインツのヨハン グーテンベルク(Johann Gutenberg 1397?-1468)が鉛鋳造活字による活版印刷を発明し、活版印刷でラテン語の聖書を印刷しました。これがグーテンベルク聖書(Gutenberg Bible, 42-line Bible)です。グーテンベルクは貴族の家系の生まれであったと言う説もありますが確かなことは、わかりません。父はフリーレ ゲンスフライシュ(Friele Gensfleisch)で、父が金細工師あるいは飾り職人であったことは確かのようです。男子の一人は母方の姓を名乗る習慣からグ-テンべルクと呼ばれていましたが、ヨハネス ゲンスフライシュ ツール ラーデン(Johannes Gensfleisch tur Laden)が正式の名前でした。生まれはマインツで父の仕事を受け継ぎ金細工師になりました。グーテンベルクは一時、マインツの貴族と市議会、ギルドの争いに巻き込まれストラスブルグに追放されましたが、その後再びマインツに戻りました。彼は活版印刷の研究をストラスブルグで1436年頃から始めました。マインツに戻ってからも研究を続けましたが字母の作製、活字の鋳造、活版印刷用のインクの製造、印刷機の開発は、困難を極めました。何度も実験を重ね活字の鋳型である母型を作る活字の原型(父型)は鉄で作り、活字は鉛を主体として錫、アンチモン、ビスマスを加えた合金で作製し、インクは油性インクを開発し、印刷機は木版の印刷機と、ぶどう酒製造のためのぶどう絞り機及びコインの刻印のためのプレス機を参考にして作りました。これらの開発のうち最も困難で問題なのは、活字の材料と活字の製法です。以下少し長くグーテンベルクの活字を生産する方法について述べますが、この安定した活字の生産が,グーテンベルクの活版印刷を急速に全欧州に伝播させ文化と情報伝達に革命を起こした最大の原因で、最も重要なのです。その後詳しく本としてのグーテンベルク聖書について述べますが 以下の内容は気の向くままに書いたもので学問的に保証するものではありません。グーテンベルクの時代の背景はグーテンベルク博物館に詳しくありますから英語の得意な方はご覧下さい。
またグーテンベルク聖書そのものの英語の解説はブリテイッシュ ライブラリイのものが良いと思います。さらに このホームページのサブページのインキュナブラにも数多くのインキュナブラの写真と共にグーテンべルグ聖書の写真と、その説明が載せてありますから、そちらも御覧下さい。この他グ-テンベルグ聖書とインキュナブラ関連のリンク先をまとめた表が写真の後ろ、つまりこのサイトの最後にあります。
さて活字を作るには当然金属を鋳造しなければなりません。またその金属材料は安価で適度の硬さを持ち作り易いよう融点の低いものである必要があります。前述のようにグーテンベルクは金細工職人であり金属の飾り職人でしたが、この経歴が非常に重要でした。金属の飾りや小物は当時しばしば鋳造でつくられました。鋳造に用いる金属も金、銀のみならず鉛と錫の合金の (しろめ) も用いられ、(しろめ)が融点が低いことをよく知っており、これに適度の硬さを持つようアンチモンと少量のビスマスを加えて活字の材料としました。ところでマインツの大司教は当時国家の貨幣の鋳造権を持っており、そのためマインツには造幣局がありました。グーテンベルクの父フリ-レは貨幣のデザイン、鋳造、刻印等の造幣局の仕事にもついていました。そのためグ-テンベルク自身も貨幣のデザイン、鋳造,及び刻印を学びました。貨幣を作るには、まず金、銀を高温で溶かし鋳型に流して小型で薄い刻印のない円盤を鋳造します。そして鋼鉄にコインの表面の逆型の模様を彫ったものを裏用と表用の2個つくり、熱した上記の金、銀の円盤 を挟むようにして刻印機にかけプレスします。刻印機は強い力で押せるよう非常に大きなネジ式のプレス機でした。このプレス機はネジを回す取っ手は4-5メ-トルあり大人数人で回したようです。グーテンベルクは金細工師の技術と、このコインのデザイン、鋳造、刻印の技術を利用して活字を作りました。彼は活字を作るのに、まず得意な金属細工の技法を用い、手と簡単な道具で鋼鉄を削り活字の原型つまり父型(Punch)を作りました。この硬い鋼鉄製の父型を、より柔らかい金属である銅の熱した厚い板に打ち込み、鋳型の母型(Matrix)を作りました(最近の研究では母型は現在の鋳物の鋳造の如く砂あるいは粘土の型を用いたと言う説もあります)。母型の作製の初期の段階では、ポンチをハンマーで打つのと似た方法で父型を打ち込んだと思われます。この打ち方は当時、貴重な本の表紙の真鍮の飾りに文字や文様を刻印するのに使われた方法です。しかしこの方法では母型の深さを一定に保てませんから、後にはコインの刻印機をヒントにして強力なネジ式のプレス機を製作し、このプレス機に父型と熱した厚い銅板をセットし強力にプレスして母型を作ったと推定されていますが 最終的には父型から母型を作る小型の器具を作製し これを用いて母型を作りました。さてできた母型が文字面のみならず活字の柄つまりボデイーの部分の鋳型を含むほど深くなるまでに、鋼鉄でできた父型を母型になる厚い銅板にプレスできるわけはなく、例えプレスできても、活字を鋳造した後、それを母型からはずすことができなかったでしょう。従って角柱の穴のあいた活字の柄つまりボデイーの部分の鋳型が必要でした。この銅の活字の母型と活字の柄の部分のための角柱の穴のあいた鋳型とを組合わせ、高温にして溶けた上記の鉛合金を流して活字を鋳造しました。もちろん母型の表面には母型と活字になった鉛合金が付かないよう(油など?)を塗りました。この時問題となるのは、アルファベットは m とか w のような幅広いものから i 及びl のように幅狭いものまで連続的にあり、各種の横幅の柄つまりボデイーの鋳型を作る必要があります。最初各種の横幅の柄の鋳型と組み合わせて活字を作ったところ、今度は活字の高さ(縦の幅の事 活字の長さでは ありません)をそろえる事が困難でしたし、さらにできた活字を柄の鋳型からはずすのも容易ではありませんでした。そのため柄の鋳型をブロック化して上から見たとき L 型と さかさL型の二つの鋳型を作りそれらを組み合わせて、お互いにずらす事により、同じ一組で横幅の可変な柄の鋳型を作りました。L型の鋳型は下の図9、図10を見ると良く判ります。この横幅の可変な柄の鋳型と母型とを組み合わせて活字を鋳造する事により各種の横幅で高さ(縦の幅)の揃った活字を作る事が出来たのみならず、柄の鋳型のブロックをはずして活字を容易に取り出すことができました。このようにして高さ(縦の幅)が一定で文字面と角柱の柄とが一体となった鉛鋳造活字をこつこつと時間をかけて生産しました。文で書けば簡単のようですが、実際良質の活字を大量に製造することは大変で、グーテンベルクは活版印刷の研究開始から聖書の印刷開始までに約15年間必要としました。ところで活字の母型を作る時、丁度、(商売用のタイ焼き器の片側) のように一枚の厚い銅板に母型を縦横にかなりの間隔をおいて多数並べて作り、これに蜂の巣状に角柱の穴の空いた柄の鋳型と組み合わせて、そこに鉛合金を流し込み、活字を大量生産する方法は、グ-テンベルクよりすぐ後の多くの印刷者が採用したことは確かですが、グーテンベルク自身が行ったかどうか定かではありません。しかし研究によればグ-テンベルグが製造した活字は10万本から40万本と推定されており、このような大量の活字を前述のL字型の柄の鋳型を使い一本一本最後までこつこつと作ったとも考えにくく、後にはグーテンベルグも商売用のタイ焼き器様の母型で活字を大量生産した可能性も十分あります。西洋の一流図書館のいくらかは、ときどき15-17世紀の貴重な図書とその印刷に使用した活字の父型、母型を同時に展示することがあります。ただし残念ながらグーテンベルク聖書の活字の母型、父型、活字は、全く現存しておりません。ところでグーテンベルクの印刷機は皆さん写真等で良くご存知と思いますが、実験の結果、用紙に活字を非常に強い力で押さないと、安定した印刷が出来ないことが判り、そのため葡萄しぼり機とコインの刻印用のプレス機を参考にして現在我々が工具として使う 万力 と同じ原理のネジ式のプレス印刷機を開発しました。1474年に出版された本には、グ-テンベルクは聖書を6台のネジ式プレス印刷機で一日最高およそ600ページ刷ったと書かれています。一方、当時の手書き用のインクは水性のものでしたが、水性インクは粘性がないため版の活字の文字面に一様に塗ることが困難でした。そのため水性インクで印刷すると印刷むらが出来てしまいました。この問題はアマニ油を用いた油性インクを開発することで解決しました。版になった活字の文字面にインクを塗るのには、ハケは用いず、非常に大きなテルテル坊主の頭か、あるいはボクシングのグローブの丸い所のような形の、つまり半球状の形の革のパテを使用しました。
グーテンベルクは聖書を印刷する以前の1442年に活字により、たった一ペ-ジのみですが2かラムあり1カラムが12行の紙片を印刷したと活字の形から推定されています。また免罪符及び簡単なラテン語の文法書を印刷したと言う説もありますが、確かなことは判りません。しかしブリテイッシュ ライブラリイ所蔵の免罪符(Indulgence)の代表的な活字2種類のうち大きい方の活字はグーテンベルク42行聖書(36行聖書?)の活字に非常に良く似ていてグーテンベルクが印刷した可能性が高いと思います。その後の1447年に、これも本ではなくグーテンベルグの名前もありませんが 最後の審判における詩?(The poem on the last judgment Wertgerichtsgedicht) と 有名な1448年の天文暦(Calender for
1448) とを活版印刷したことは活字のデザインから確かなようです。さらにブリテイッシュ ライブラリイにあるDonatus Ars Minor と言う文書(簡単なラテン語の文法書か?)は36行聖書〈42行聖書?)と同じ活字が使われており遅くとも1455年以前に印刷されたものだと推定されています。グ-テンベルクは四十ニ行聖書とも呼ばれる有名なグーテンベルク聖書以外に三十六行聖書(Albrecht
Pfister印刷?)の印刷にその後関係しましたが、1448年の天文暦の一部分に三十六行聖書とほぼ同じデザインの活字が使われており、このことが後で出版された三十六行聖書の活字がグーテンベルク聖書(四十ニ行聖書)の活字より先に作られたと言われる根拠になっています。
さて肝心のグーテンベルク聖書の話しに戻しますと、グーテンベルクがこの聖書の印刷を開始してから完成するのに1450年から1455年までの5年間もかかったとのことです。この聖書には、現在のアルファベットの印刷物に比べて異常に多くの種類の活字が使用されており、使われた活字は全部で句読点、省略文字、連文字を含めて、170種類から400種類と多数の説があります。グ-テンベルク聖書の特徴である連文字(連字 ligature)とは、2-3個のアルファベットあるいは記号をつなげて一つの活字に鋳造した、いわゆる連字活字で印字した文字で、同様の手法が現在でもイギリスの歴史と伝統のある高級誌に見られます。この聖書は紙刷りのものとベラム(羊皮紙)刷りのものが有りますが、紙は それぞれ牛の頭部(図11A、図11B)、円形の茎の葡萄(図11D)、茎が太めの葡萄(図11C)の透かし模様の入った三種類のイタリア製の手すき紙と 駈けている牛の透かし模様(図11E) の入った一種類のフランス製の手すき紙を用いており、ベラム(羊皮紙)は羊皮紙と言う文字から羊の皮を想像しますが、子牛皮から作ったベラムです。図11Aに牛の頭部の透かし模様を写真で示し、そのシェ-マを図11Bに示します。聖書に使用された手すき紙のうち70パーセントが牛の頭の透かし(図11A、図11B)のあるイタリア製の紙です。フランス製の紙は主に新約聖書に使われました。この聖書は一ページが2カラムで1カラムが四十ニ行あり、それが四十ニ行聖書とも呼ばれる理由です。当時の手書き本においては文章の周りに装飾を描く習慣があり、それに合わせて、この聖書も各ペ-ジの周囲に充分な余白があります。サイズはフォリオ サイズ(約29.5cm×40cm)で642枚1284ページに、旧約、新約、外典、偽典を含むウルガタ聖書が印刷されています。ちなみにウルガタ聖書というのは4世紀末に聖ヒエロニムスが古代へブライ語の旧約聖書と古代ギリシャ語の新約聖書から当時の不完全なラテン語訳を参考にして正式に全部ラテン語に翻訳したローマカトリック教会の基本の聖書で、ウルガタ(Vulgata)というのは、(おおやけに承認されている) というような意味です。グーテンベルク聖書の装飾的なイニシアル〈図2、図5)はすべて手書きで、手書き部分がカラフルなため色刷りに見えますが印刷部分は基本的には色刷りではありません。この装飾的なイニシアルは刊行時に手書きされたものですが、余白の半分近くを占めるような大げさな装飾は、すべて後代に手で書き加えられたものです。四十ニ行聖書といわれますが、その構成は現存の各本によって異なりますが、代表的な一例を示すと、後代に追加されたと思われる目次4葉、1ー9頁は40行、10頁は41行、11頁以後は42行で刷られています。特に、40行と41行のペ-ジ数は現存の各本によりかなり異なり、また129枚目(258ページ目)から132枚目まで40行のものもあり、さらに全部42行のものもあります。実際の聖書で示しますとブリテイッシュ ライブラリイの聖書の上巻の一枚目(ブリテイッシュ ライブラリーのサイトから出す)は42行、テキサス大学の上巻の一枚目は40行です。テキサス大学の10頁(テキサスのサイトではPAGE005verso)は41行です。基本的には色刷りではないと言いましたが、40行、41行を含む聖書においては1,4,5,129,130枚目等で、黒とわずかですが赤の色刷りを試みたものもあります。ブリテイッシュ ライブラリイの紙の聖書の冒頭(42行)の赤い文章の行は手書きですし、テキサス大学の聖書の冒頭〈40行)及びオックスフォード大学の聖書の冒頭〈40行)の赤い文章の行は印刷です。しかし結果的には色刷りは失敗に終わり、途中で赤色の文字は手書きに変えたようです。なぜ現存の各本の行数が異なるかは後ほど詳しく述べるつもりです。目次は印刷時には存在せず、後代に追加されたものと、印刷時のままのものとまちまちです。文字はこの時代のドイツの手書き本と同様に、やや装飾的なゴシック形式(現在の米式のゴシック体ではありません)で、大文字は、多くの例で印刷された大文字の上に手書きで赤色の線が加えられていますが〈図12)、中にはすべて大文字が黒くみえるものもあります(図13)。ただし聖詩篇は特別で大文字はすべて印刷されておらず手書きです(図14)。グーテンベルク聖書の文字のデザインは、すばらしく、これ以後現代まで、これ以上のデザインの文字は、ないといわれています。そのためかドイツでは他のヨーロッパ諸国と異なり20世紀にヒットラーが禁止するまでゴシック形式の装飾文字(いわゆる ひげ文字)が用いられました。グーテンベルクがこの聖書を何冊 刷ったか定かではなく、合計180部から300部まで多数の説がありますが、もっともらしい一つの説を紹介しますとと、紙刷り本180部,ベラム刷り本30部とも言われています。グーテンベルクと同時代のローマ法王ピウスⅡ世が法王になる以前に聖書の印刷部数は180部と156部と異なる部数を記録していますが、この記録から紙とベラムの合計で180部という説が一番有力です。いずれにせよ一応本として現存するものは、紙刷り36部、ベラム刷り12部の合計48部です。その他聖書を一枚ずつにバラしたものが、かなりの枚数現存しています。これらのうちドイツのライプチッヒにあったベラム刷りの完本に近いもの1部(1葉欠)と紙刷りの完本1部が第二次世界大戦中にロシア陸軍に略奪され一時行方不明になりました。またインデイアナ大学のLilly Libraryにある紙刷りの新約聖書を含む聖書はドイツのTrierのStadtbibliothekにある旧約聖書の一部分〈上巻)の下巻(残りの旧約聖書と新約聖書)で、これらは合わせて本来1部と数えるべきものです。この意味からすれば正確には、47部現存していると言うべきですが、ここでは便宜的に48部現存しているとしておきます。現存する聖書は複数の聖書を所蔵している所があるため世界中の42ヶ所の機関により所蔵されています。本として製本してある48部のうち完本は紙刷り18部、ベラム刷り4部の合計22部のみです。紙刷りの完本18部のうちドイツ シュトットガルトのWurttembergische Landesbibliothek所蔵の1部は111枚目が欠けていた聖書に本物の111枚目を手にいれて補填して完本にした唯一のものです。ベラムの不完本8部のうち5部が、紙の不完本18部のうち3部が欠葉6以下で完本に近いものです。紙刷りの9部、ベラム刷りの2部は上巻(旧約聖書の一部分)あるいは下巻(旧約聖書の残りと新約聖書)のどちらかのみの現存です。グーテンベルク聖書は現代の書物の紙と比べると各ページの一枚の紙あるいはベラムの厚さが、はるかに厚いため、完本は一冊に製本することが、かなり困難で、完本、不完本の合計48部のうち2部が4冊に、1部が3冊に、21部が2冊に装丁され、1部が装丁されずに2つのスリップケ-ス入れてあり、残りが1冊に装丁されています。現存するこれらの本は、ほとんどすべて世界中の国公立図書館、大学図書館、博物館におさめられてしまい、個人所有のものは一部とも零部とも言われています。現在世界でグーテンベルク聖書を最も多く所蔵しているのは、アメリカ ニューヨークのピアポント モルガン ライブラリィ(Pierpont Morgan Library)で、ベラム刷りの完本に近いもの1部(4葉欠落)と紙刷りの完本1部、紙刷りで130葉欠落の不完本1部合計3部を所蔵しており、これに次ぐのがイギリス ロンドンのBritish Library
のベラム刷り完本1部、紙刷り完本1部の計2部、フランス パリ国立文書館のベラム刷り完本1部、紙刷り不完本1部の計2部、イタリア ローマ ヴァチカンのベラム刷り不完本1部(6葉欠落)、紙刷り不完本1部及びドイツ マインツのグ-テンベルグ博物館の紙刷り不完本2部です。他はそれぞれ1部ずつの所蔵です。なかでも、アメリカ議会図書館のベラム刷りの完本、イギリス British Library
のベラム刷りの完本、フランス パリ国立文書館のベラム刷りの完本、ドイツ ゲッチンゲン大学のベラム刷り完本が有名です。グーテンベルク聖書を3部も所蔵しているピアポント モルガン ライブラリィはモルガン財閥の有名なジョン ピアポント モルガン(John Pierpont Morgan)のコレクションを中心とした図書館です。モルガンは歴史上最高の美術コレクターとしても知られています。ニ流美術館であったニューヨークのメトロポリタン美術館を一流にレベルアップしたのはモルガンです。このサイトのシェイクスピアのフォリオのサブページで紹介しているアメリカ歴史上最高の愛書狂フォルジャーと異なり、モルガンは他人が集めた美術品や本のコレクションを丸ごと収集し、コレクションのコレクターと言われています。しかし いくら何でも本のコレクションをコレクトした中に結果的に3部のグ-テンベルク聖書が含まれていた訳ではないでしょう? ピアポント モルガン ライブラリーにはグーテンベルク聖書3部のみならずシェーファー フスト印行の聖詩篇 48行聖書 Pfister印行の36行聖書 グ-テンベルグ印行?のカトリコン カクストン印行のカンタベリー物語初版及び2版も所蔵しているという驚くべき図書館です。これらの9点のみで邦貨300億円を越すと思われ日本の国立国会図書館の全所蔵本の中古価格の合計より高い価格だと思われます。 グーテンベルク聖書を所蔵している世界中の42ヶ所の図書館博物館のうちアメリカ ニュージャージー州のプリンストンのプリンストン大学の構内にあるScheide
LibraryはJhonとBillのScheide親子が個人的に開設した図書館です。ヨーロッパ以外でインキュナブラの4大聖書である 42行聖書、36行聖書、メンテリンの聖書、48行聖書をすべて所蔵しているのはScheide Libraryのみです。
グーテンベルク聖書は完本、不完本をとわず、それぞれを一部と数えた時、2000年の調査によれば、ヨーロッパに36部、北米に11部、アジアに1部あると言われています。うちわけは、ヨーロッパではドイツ12部、フランス4部、イタリア ロ-マのヴァチカン2部、、スペイン2部、ロシア2部、デンマーク、スイス、オーストリア、ベルギー、ポルトガル、ポーランド 各1部、イギリス8部、 北米はアメリカ11部、アジアは日本1部の合計48部です。ロシアの2部は確実に前述の第二次大戦中行方不明でになったものです。完本に関してはイギリス7部、アメリカ5部、ドイツ4部、フランス2部、ロシア、スペイン、ポルトガル、オーストリア各1部の所蔵です。ベラムの完本の所蔵はイギリス、ドイツ、フランス、アメリカそれぞれ1部ずつです。グーテンベルク聖書の世界中のすべての所蔵機関を知りたい方はここをクリックして下さい。
海外で一流図書館としてランクされるためにはグーテンベルク聖書の完本とシェイクスピアのフォリオ全四巻を完全に揃えるのが一条件とされているとのことです。完本は世界中で22部しかなく、そのすべてが公共施設に納められていますから今後売り出されることは多分ないでしょう。フォリオに関してはこのホームページの別のサブページ シェイクスピアのフォリオに詳しくありますからそちらもご覧ください。
通常画期的な技術的発明は、発明当初は例外なく現在のものと比較すれば非常に幼稚ですが、グーテンベルク聖書は世界最初の鉛鋳造活字による活版印刷本であるにもかかわらず現在の書物と比較しても極めて美しく芸術的ですらあります。もちろん当時の手書き本の美しさと芸術性に強く影響されたとはいえ、最初の試みで驚くべき完璧な完成度の本を印刷したことは、ほとんど信じられないくらいです。まさに神がかり的だといえるでしょう。しかしこのことが、いかなる文献を調べるよりドイツ人たるグーテンベルグの性格を最も良く表していると思いますし、後述のグーテンベルクの悲劇の一因でもあるでしょう。
グーテンベルクはグーテンベルク聖書の刊行以後、1499年にケルンで出版された本おいて、はじめて印刷術の発明家として紹介されていますが、その後百年以上もたつと、彼も聖書もすっかり忘れ去られてしまいました。グーテンベルク聖書があまりにも美しく芸術的であったため、誰が見ても手書き本としか見えなっかった事も、忘れ去られた一因でした。17世紀のフランス宰相マザランは、文化的愛書家で多数のすぐれた書物を集めマザラン文庫を創設しましたが、マザランの没後1763年にフランスの書誌学者ド ビュールがマザラン文庫を整理中この文庫の中からグーテンベルク聖書を発見し、これを世界最初の鉛鋳造活字による活版印刷本である事を示したため、再びこの聖書は日の目をみることになったのです。このためグーテンベルク聖書は一時マザラン聖書と呼ばれたことがあります。
グーテンベルク聖書は現在の印刷と異なり1284ページ分、全部の活字を組んで印刷したものではなく、恐らく活字の数が少なかったため、24ペ-ジ分から40ページ分程度(正確には不明、128ペ-ジ分という説もあります)の活字を組み、それを刷って後、活字をばらして次の24ペ-ジ分から40ページ分程度の活字を組むことの繰り返しで印刷したと多くの学者は推定しています。この方法はグーテンベルク聖書に限らず、以後1800年前後まで大型の本の印刷において行われました。グーテンベルク聖書を詳しく調べると、この推定と矛盾するところもあるようです。
現在の書物は、ある一種類の本において、同じ版であれば多数の本の同じページは当然皆同じであり、文字そのものや文字の並びが一部分異なると言うようなことはありません。しかし現存する48部のグーテンベルク聖書においては、同じページでもぺージの一部分においては文字及びその細かい並び(アラインメント)が各本ごとに異なり、同じものは一つもないと言う報告があります? このことが拡大鏡レベルで微妙に異なると言うのか、あるいは肉眼ではっきり判り活字〈単語表現)が異なっていると言っているのか判りませんが、まず最初に拡大鏡レベルの違いについて検討してみましよう。今までの研究によりグーテンベルク聖書は印刷時に、活字の用紙に対する圧力が一枚一枚異なっていることが判明していますから、丁度古いゴム印を使う時、押す力の程度により文字のパタ-ンが微妙に変わるのと似ており、活字の平面性が劣り、活字の輪郭の切れこみがあまく、丸くなっていたり、インクの量が異なれば、ゴム印と異なり活字には弾力性は有りませんが、厚い用紙に弾力性があるため、圧力の変化で文字のパターンが微妙に異なると、ある程度は説明できます。次に聖書の各本の同じページにおいて、それぞれお互いに活字あるいは文字表現が異なり肉眼で判るほど違うかどうか検討してみましょう。Britsh
Library にあるベラム刷りと紙刷りの二つのグーテンベルク聖書とテキサス州立大学のRansom Humanities
Center図書館 の紙刷りのグーテンベルク聖書およびゲッチンゲン大学のベラム刷りの聖書はインターネットで実物大以上の大きさ(British
Libraryとゲッチンゲンは巨大、テキサス大学は普通の大きさ)で聖書の全ページを見ることができますが、私自身でBritish
Libraryの二つの聖書の同じペ-ジを合計6ページ調べて見ましたが、その範囲ではスペルとか活字が異なっているところはありませんでした。もちろん本全体の中の、ほんの一部分お互いに異なっているかどうかまでは、これではわかりません。この二つの聖書は二つともすべての行が42行の聖書のため、印刷時期がほとんど同じと推定され、そのため文字表現が異なっていなかったのかも知れません。ところでアメリカ ニューヨ-クのPierpont Morgan Library にはグーテンベルク聖書がベラム刷り一部、紙刷り2部の合計3部ありますが、私はアメリカのこのMorgan
Library のベラム刷りのグ-テンベルグ聖書の、或るペ-ジの写真(図6)と、同じMorgan Library
の紙刷りのグーテンベルク聖書の同じペ-ジの写真(図7)を持っていますが、それらを比較して見ますと確かに明らかに活字(単語表現)が異なる部分〈図6、図7)が少なくとも3個所はあります。一例をあげれば、或る単語が片方が正式なスペルで他方が省略形式のスペルで表現され、具体的には片方のある単語はアルファベットが9個で刷られており、他方はその単語が7個のアルファベットで刷られています。従ってどちらも誤植ではないでしょうが、肉眼で見ただけで、はっきりと、お互いに活字が異なるのが判ります。さらに調べてゆきましょう。前述のようにグーテンベルク聖書には、1ペ-ジが40行、41行のペ-ジを含むものと最初からすべて42行のものとがあります。多くの学者の研究により、最初から42行の聖書と、一部分40行、41行を含む聖書では、ごく僅かですが単語のスペルが異なり〈正式スペルと省略スペル等)、従って当然活字〈単語表現)が異なっていることが判ってきています。つまりグーテンベルグ聖書の異なる本の同じペ-ジにおいて、一部分、活字〈単語表現)が、お互いに異なっている場合が特別な条件ではあるわけです。時間のある方は、42行のブリテイッシュライブラリイの紙の聖書の冒頭のページと40行のテキサス大学の聖書の冒頭のページとの単語表現の違いを自分の眼で確かめて見てください。テキサス大学のページが気にいらない方はオックスフォード大学の聖書の冒頭の40行のページと比較すると良いでしょう。オックスフォード大学の聖書は小さくて比較困難と思われる方は慶応大学の聖書の上巻(旧約聖書の一部分)の冒頭のページはやはり40行のため、これとブリテイッシュライブラリイの聖書とを比較するとよいでしょう。ただし慶応の聖書は一ページ全体を拡大して見ることができませんし強拡大の画面をプリントする事も下巻〈旧約聖書の残りと新約聖書)を見ることも出来ません。慶応の聖書を拡大して見るには聖書の一ページの画面をクリックして、かなり時間がたってから再び聖書の一ページが現れたら、その聖書の一ページの中の画面の見たい所をクリックすると、そこを中心にページの一部分の拡大画面を見ることが出来ますが、さらにクリックすると、より拡大されます。次に、すべてが42行の聖書は、お互いに全く同じなのでしょうか? ブリテイッシュ ライブラリイの聖書は紙もベラムも最初からすべて42行の聖書であり、上記の如く数ページ見ただけでは、お互いに同じように見えますが、よくよく見ると単語表現が異なるぺージもあるようです。例えば上巻23枚目の表(recto)の最初の行の最初の単語は紙の聖書とベラムの聖書では単語表現が異なりますから自分で紙とベラムの聖書の23枚目の表を出して確かめて見て下さい。従ってすべてが42行の聖書が、みな同じとは限りません。
さてまじめな話し、図6,図7のように本全体のごく一部分にしろグーテンベルク聖書の現存の各本が、異なる聖書の同じペ-ジでお互いに活字あるいは文字表現が異なっている原因は何でしょうか?。まず聖書の原稿のウルガタ聖書は当然複数の手書き本を準備したと考えられますが、手書き本はしばしば、お互いに記述が異なり、どれが正しいか決定困難で、印刷初期においては、ラテン語に詳しくない印刷者は困惑したと思われます。また上述したように42行聖書と言われていますが最初のページを含めて一部分に40行と41行のペ-ジがあり、それ以外は42行で刷った言うことは、最初は40行で刷るつもりが途中で刷る回数と必要な用紙の枚数を減らすため41行に変え、大混乱の後、最終的に42行に決定したと思われます。さらに今までの研究の結果、グーテンベルク聖書はかなりのページ数を刷った後に途中で印刷部数を増やすため、わずかなページ数ですが、もう一度活字を組み直し再び印刷したという事が明らかになっています。これらのことから、最初から全部42行の聖書は、後で印刷部数を増やすため、少なくとも一部分は再び活字を組み直して刷ったもの、つまり2回目の刷りだと考えられます。活字を組み直したとすれば、活字〈単語表現)が変わっても不思議ありませんから、このことが一番重要です。また本を出版した人なら良く判ると思いますが、歴史上最初の印刷で、しかもその初期の混乱のなかでは、非常に多くの誤植及びかん違いがあったと思われ、なじみがなく判りにくいラテン語のため誤植も見つけにくく、同じページを刷っている途中で何度も誤植あるいは、かん違いを発見し、その都度誤植を直しながら刷っていったと考えられます。そのとき誤植あるいは、かん違いの修正以前の印刷ページがまぎれこんで聖書に使用された可能性もあります。実際グーテンベルク聖書の活字は読者自身も図3、図5、図6、図7を見ればお判りと思いますが、u、n、 m等は極めて良く似ており私ではそれらの判別が不可能なところもあります。しかし
当然誤植あるいは勘違いも慣れるに従って次第に減少したでしょう。このように記述の異なる複数の原稿、1ペ-ジが40行、41行、42行というような行数の迷いと、再び活字を組んで聖書の刷り増しを行った混乱と多数の誤植と、かん違いが合わさったことが原因で、現存の聖書の各本が、ごく一部分お互いに異なってしまったと考えられます。このなかでも最も重要で文字表現が異なるほとんどすべての原因は、刷り増しのための活字の組み直しでしょう。不思議なことに40行、41行を含む聖書と最初からすべて42行の聖書を比較しながら眺めて見ると、特に活字を組み直したと思われるペ-ジでは、その違いはかなり多く、特に単語の省略表現が正式スペルに変えてあるのは、私には意図的に思えてなりません。つまり40行で刷った内容と単語数を(活字を組替えるとき)なるべくそのままで42行にするために単語を長くする必要があり40行のページにおいて省略形式で表した単語を42行の同じページではその単語を正式なスペルで表したのでしょう。このように努力しても40行の単語数そのままの単語数で42行にすることができず単語数が数語が増加してしまっている例もあります。さて整理しますと40行、41行のページを含む聖書は多くのページが一回目の刷りであり、すべてのペ-ジが42行の聖書は(少なくとも最初のページを含めて一部分は)二回目の刷りに違いないと思います.。さてこの二回目の刷りはグーテンベルクが裁判〈後述)に負け責任者がフスト、シェーファーに変わった後に行われ、上記の違いは責任者が変わった影響もあると想像すれば、後述の光放射での研究と話しが合います。そうではなく、2回目の印刷がグーテンベルクの裁判以前でしたら、グーテンベルクの性格から活字を組替えるとき無理に40行、41行のものを42行にするため単語表現を省略形式のスペルから正式のスペルに、あるいは正式のスペルから省略形式のスペルに変える事はなかったかもしれません?。これは冗談ですが、グーテンベルクは各本の違いが、もしあったとしても、それを欠点とは見ず、もしかしたら人が手書き本と見てくれることを期待した可能性も少しはあると思います。
さて読者も疑問に感じたと思いますが、アルファベットの大文字小文字及び句読点を含めて、せいぜい70種類以下の活字を使用している現在の普通の欧文の書物と異なり、グーテンベルク聖書に使用されている活字の種類が(色々な説がありますが)170から400もあることは、何故でしょうか?。これを考えてみましょう。現在の普通の欧文の書物においては、もちろんある定まったペ-ジにおいて、そのページの中で同じアルファベットは、すべてみな同じ活字を用いており、従ってみな同じ文字です。ところがグ-テンベルク聖書のある本のあるページ内において、同じアルファベットでもデザインは同じですが、文字はお互いに微妙に異なるものがあります。実際の例で示しますとブリテイッシュ ライブラリイの上巻1枚目の裏(verso)を呼び出して見てみると左カラムの最初の行には1行だけで a の形のアルファベットが4個ありますが拡大鏡で見ますと中には微妙に異なるものがあり、注意深く見れば肉眼でも判ります。特に1番目と2番目は、お互いに、はっきり異なります。活字の製造において、あるアルファベットの活字にたいして鉄の活字の原型(父型)が一つだけか、又は複数あっても皆全く同じであれば、全く同じ母型ができ、従って全くおなじ活字ができるのは当然です。もちろん全く同じ活字なら全く同じ文字になります。ところでグ-テンベルク聖書において同じアルファベットの活字〈文字)が微妙に異なるのは同じアルファベットに対してニ個あるいは、それ以上の活字の原型(父型)を作ったことになりますが、その一つずつを手で鉄を削って作ったため全く同じ活字の原型(父型)を作ることができなかったのでしょう。また頻回の打ち込みで磨り減った父型を手で、すこし削りなおした可能性もあるでしょうし、あるいは新しく鋳造した活字の精度を上げるためか、あるいは何回もの印刷で磨り減った活字そのものを一本一本、文字面の表面を磨いたり文字の輪郭を手で修正した影響も考えられます。さらに上述の如く印刷の時に活字に加わる圧力の差の影響もあるかもしれません。これらが同じアルファベットでも活字〈文字)が微妙に異なる原因だと思われ、研究の結果グーテンベルク聖書に使われている活字の種類が現代に比べて異常に多い原因で、また研究者により活字の種類の説が170種類から400種類と広範囲に異なり一定にならない原因でもあります。
ここで話を変えて先端技術を使用してのグーテンベルク聖書の研究を紹介しましょう。光放射装置による研究の話しです。光放射装置は、有名な和歌山県の毒カレー事件の毒物の分析にも用いられ、その結果を証拠としたそうですが、光放射装置とは円形の真空にしたド-ナッツ状のチューブの中で電子あるいは陽子を光の速度に近いほど加速して、強力で波長が短く、かつ波長のそろったエックス線を放射する装置です。この波長のそろったエックス線により極めて微量な物質を分析する事ができます。研究は紙刷り及びベラム刷りの聖書を2日間借りてアメリカ カルフォルニアのバ-クレイで1983年に行われました。借りたグーテンベルグ聖書の中には1987年に丸善が購入し1996年以後日本の慶応大学にある紙刷りの不完本Doheny
copyも含まれていました。光放射装置でインクの分析を行ったところグーテンベルク聖書の各葉〈一枚一枚)の表と裏のインクの成分は明白に異なり、そのためグ-テンベルク聖書は、まとまった枚数の各葉の表をまず刷りその後、裏を刷ったもので表裏表裏というようにページの順番に刷っていったものではないと結論しました。ところで何度も繰り返して書きますがグ-テンベルク聖書には40行、41行を含むものと、すべて42行のものがあり、40行、41行を含むものが1回目の刷りで、すべて42行の聖書は(少なくとも最初の数枚を含めて一部分は活字を組み直しての)2回目の印刷と考えられていますが、聖書の始めの部分で1回目の刷りと考えられるものと、2回目の刷りと考えられるものとではインクが全くがらりと変わっていたそうです。このことから2回目の印刷のインクはグ-テンベルクのインクではなく、1回目の時に用いたインクはグーテンベルクがフストに裁判で負けたとき、それを渡さず持って出たとし、2回目の印刷は裁判の後で行われインクはフストとシェーファーが作ったものと推定しています。さらに紙刷りの聖書とベラム刷りの聖書のインクを分析した結果、特に違いはなく、従って紙刷り、ベラム刷りは別々に刷られたものでなく同時に進行して刷られたと結論しています。グ-テンベルク聖書は、手漉き紙一枚を一つ折りにしてそれを聖書の4ページにし、その集合をバインデイングして作られていますが、この事を考慮しての結論でしょうか?いささか考え過ぎのような気もします。
ごちゃごちゃ書いて混乱すると思いますが、40行のページを含む聖書において、40行のところが、1枚目から数枚のみならず、129枚目から数枚にもあるのは何故でしょうか?。例えば6枚目のところで1ペ-ジ42行と決定したとしたら、それ以後すべて42行になると思うのが自然です。また40行ある1枚目の表(おもて)と129枚目の表は一部分のみ赤と黒の色刷りになっていますが、この色刷りは重ね刷りですから、非常に手間が必要のためか?すぐ中止したことはともかく、1枚目と129枚目と言うように色刷り部分も随分離れたペ-ジで存在します。これらのことから1枚目の表(おもて)と、ほとんど同時にあるいは僅かに遅れて129枚目の表を印刷したと推定できますが、何故このような刷り方をしたのでしょうか?。学者は以上の事実と前述の1474年の印刷機の報告、及びその他の詳細の研究から、4から6グループが4から6台の印刷機を使って聖書を4から6分割して印刷したと結論しています。従って第一のグループが1枚目の表〈recto)から印刷を始め、ほとんど同時に第二のグループが129枚目の表(recto)から印刷を開始したと推定されます。そのため129枚目の表(recto)はページの初めに大きな4行のイニシアルがあります。また246枚目の裏(verso)は何も印刷されず白紙になっており247枚目の表(recto)の初めに大きな6行のイニシアルあることから第三のグループは247枚目から印刷を開始したと推定できます。Ⅰ巻〈上巻)の最後であるの324枚目の裏(verso)は文章が途中で終わって余白があることから、ここがグループの区切りであることは明らかです。さらにⅡ巻〈下巻)の189枚目の表(recto)は最後に余白が有り、その裏である189枚目の裏(verso)は白紙で、190枚目の表(recto)は初めが大きな5行のイニシアルであることから、ここもグループの区切りです。従って聖書自身から解析すれば5グループに分けて印刷した可能性が一番高いと思います。下の図1に示した原葉はペ-ジの最初に6段の大きなイニシアルが有りますが、これは239枚目の表(rect)であり印刷グループの変更点ではなくバージョンの初めです。ところで少し話が変わりますが、これらの事と前述の光放射の研究で最初は表ペ-ジのみ連続して刷られたと言う結論が、グ-テンベルク聖書は128ページ分一度に活字を組んで刷ったと言う上述のあまり支持されていない仮説の根拠になっているようですが、私にもグーテンベルクが128ペ-ジ分の活字を作ったとは思えません。
グーテンベルク聖書の上巻(旧約聖書の一部分)の前半の各ページを見ると、左カラムも右カラムも上部の約10行(1行目ー10行目)においては、各行の最初の文字が、わずかに(最高1mm強)右側にズレており、このズレは上の行ほど強くみられます。この各カラムの上部の行の右側へのズレは正面から見ただけでは、ほとんど判りません。しかし各ページを、かなり下側から斜めに見ると、各行の左端が作る包らく線が真っ直ぐでなく、上の行に行くに従ってわずかに右にそれていくのがみられます。実際の例で示しますとブリテイッシュ ライブラリイの紙の聖書の上巻の7枚目の表(recto)の左カラムの一番上の1-4行目では各行の先頭のアルファベットが少し右にズレているのが強拡大では確認できます。同様のことは各カラムの下の1-2行にもみられます。これらのズレは聖書の後半になるにつれて次第に少なくなります。ズレの理由は解明されていますが、版に組んだ活字を確実に固定する事に関係があるということをヒントに、読者自身で考えてみて下さい。
現在人類が知的にも物質的にも豊かな生活ができるのは、すべて先人の知識によるものです。書物は時間と空間を超えて人類に広く知識を伝達することができます。したがって多くの学者はグーテンベルクの活版印刷の発明は文字の発明とともに人類文化史上最も偉大な発明だと言っています。しかし何事も世界最初のことは苦労の多いものです。グーテンベルクは、この聖書を弟子のペーター シェーファー(Peter Schoeffer 1425-1503?)と共に印刷しようとしましたが、お金に困りヨハン フスト(Johann Fust 1400?ー1466)から高額の借金(一回目1450年800グルデン、2回目1452年800グルデン 合計1600グルデン)をし、2回目の借金の時、フストを印刷本の共同開発のパートナーとしました。フストの職業に関しては、弁護士、銀行家、金細工師その他色々な説がありますが、不明と言うのが一番正しいでしょう。グ-テンベルグは聖書を完成し売れば簡単に借金を返せると思ったのですが、完成にあまりにも時間がかかり、聖書の完成まえに借金の返済期限が来たのです。フストはパートナー関係を解消し、貸し金1600グルデンと利子426グルデンを取り返すため訴訟を起こしました。この金額は、当時においては成牛300頭の価値があり、現在の貨幣価値に換算すれば一億円以上だそうです。この訴訟に関しては有名な1455年11月6日の日付けのあるへルマスペルガー公正証書をはじめ裁判記録の要旨が発見されており、活版印刷の発明に関する研究の貴重な資料になっています。へルマスペルガー公正証書(Hermasperger's National
Instrument)とは、公証人ウルリッヒ へルマスペルガーの前でシェーファーを証人としてフストがグーテンベルクに対して貸した1600グルデンと利子426グルデンの返済要求を宣誓した公正証書です。これらの資料によれば、グーテンベルクは裁判に負けると、さとっていたのか、自分では法廷にたたず、ハインリッヒ ケフナーとベクトル フォン ハナウを法廷に送りました。借金の金利はかなり高いものでしたが、フストは金を貸すため彼自身が借金をし、そのため高利になったと主張しました。結局マインツ市法廷は一回目の借金とその利子をフストに返すようグーテンベルグに命じました。つまりグーテンベルクは裁判に負け、そのため借金のかわりにすべてのグーテンベルク聖書の活字、印刷機械、印刷途中のグーテンベルク聖書、準備中の聖詩篇(後述)の活字をフストに取られてしまいました。フストもかわいそうに思ったのか別の三十六行聖書〈後述)の活字はグ-テンべルクに残していったそうです。主に活字のデザインを担当していた弟子のシェーファーはフストについて行きました。シェーファーは後にフストの娘婿になり最終的にフストと共に、このグーテンベルク聖書(四十ニ行聖書)を完成したと推定されています。失意のグーテンベルクは、その後、資産家コンラット フメリーの財政的援助をうけ、バンベルグで三十六行聖書(36-line Bible 1458-1459年刊、僅か12部現存、36行聖書はグーテンベルグではなくバンベルクのAlbrecht
Pfisterが印刷したという説が有力、写真を見るにはかなり長くスクロールして探す)、マインツで大衆向けのラテン語の宗教に関する百貨全書的な辞典カトリコン(Catholicon
1460年刊、別の写真〉という二つのインキュナブラの印刷に関ったと推定されています。ただ三十六行聖書の活字は前述のように四十ニ行聖書の活字の製造以前に製造され、印刷の開始も四十ニ行聖書より早かったにもかかわらず、、印刷の継続を途中で放棄したと推定されていて、いわばフストに取られなかった残りものを利用したと言うのが定説です。またカトリコンは1460年、1469年、1472年の3回刷られていますが、1988年に通常の活字ではなく1カラムの2行分が一塊に鋳造されたと言う研究が発表され、これが本当なら1度印刷されたら活字がばらされるのが普通の時代に何故3度に渡って全くおなじものが刷られたかの理由が判明するわけですが、反対意見もあり実際のところは判りません。このカトリコンに関してはグーテンベルクは少なくとも1460年の印刷に関ったのは確かだと思いますが、グーテンベルクの死後で1469年と1472年の刷りはコンラット フメリイ とシェイファーが行ったと考えられていますす。結局グーテンベルクはフストほどの商売感覚はなく、三十六行聖書は全く売れず、現存する36行聖書に完本はなく不完本が12部?〈9部?)のみです。現在では36行聖書は極めて貴重で、1991年に全体のおよそ5分の1のページ数の不完本が1部売られたことがありますが、それ以前200年間、売り出されたことはありません。悲しいことにグーテンベルクが最後まで関係して刷られた活版印刷本は例えあったとしても、ほんの僅かだと推定されています。これは余談ですが前述のグーテンベルクとフストの貴重な裁判記録の原資料は(一部分戦争で焼失したとの説もありますが)今もドイツのゲッチンゲン大学の図書館におさまっているそうです。公正証書の証人に弟子のシェーファーがなっていたことに関しては、グーテンベルクはさぞ悲しく情けなかったに違いありません。歴史的な発明は横取りされ、弟子にも裏切られて20年間の努力が水泡に帰したグーテンベルクは哀れという他ありませんが、これは改良と実験ばかりをくりかえし、いつまでたっても聖書を完成させないグーテンベルクの完璧主義にも一因があったようです。そのような彼に金儲けの種を前にしてフストとシェーファーはしびれを切らしたのでしょう。グーテンベルクは歴史的な活版印刷の発明は横取りされましたが、何百年か後に上述のような裁判記録が発見されたため、歴史上に名前だけは残しました。
グーテンベルクは1460年カトリコンの印刷に関係した後、出版活動をした記録はありません。一部の学者は活字の鉛中毒により、失明したために、やむをえず出版活動を中止したと推定しています?。わずかに救われるのはグーテンベルクは活版印刷の発明の功績が認められ1465年1月18日にマインツの大司教の年金受給者となり、たった三年の間ですが1468年2月3日に亡くなるまで年金を受け取ることができました。
グーテンベルク聖書が、いつ完成したかは前述のような訴訟の状況を考えると明確ではありません。しかしパリ国立文書館に現存するグーテンベルク聖書には聖書の完成の時期を、ある程度推定可能な一種の落書きがあります.。その聖書の最後には (ああ疲れた やっと終わった ハインリッヒ クレメル 1456年8月) と記述してあります。クレメルは後の研究で聖ステファン教会の聖職者であったことが確認されています。彼は聖書のイニシアルその他の装飾を手書きしていたと思われます。クレメルの落書きと上記の訴訟記録からグーテンベルク聖書は1455年の末あるいは遅くとも1456年の初めには印刷されていたと推定されています。一方後にローマ法王ピウスⅡ世(Pope PiusⅡ)になったアエネアス シルビアス ピッコロミニ(Aeneas Silvius Piccolomini
)は友人にあてた手紙から1455年3月に少なくとも一冊は聖書が完成」していたことが判り、彼は聖書について文字は大きく眼がね無しに読めると友人に伝えています。このことから考えると、1455年には、聖書はかなり完成していたのでしょう。 グーテンベルクから活版印刷を学んだシェーファーは後の、1457年に義父フストと共にラテン語の聖詩篇(Psalter in Latin図8、 別の写真1)を印刷しました。これが世界でニ番目(三番目?)の鉛鋳造活字による活版印刷本です。これは色印刷を行うと共に出版年月日、印刷者、印刷地、印刷者マークが書かれている初めての本でした。この本は印刷文化史上、最も美しい本といわれ、活字のデザインはグーテンベルク聖書と、ほとんど同じですが文字は異常なほど大きく美しく、鮮明度、優雅さ、品位等どこからみても最高で愛書家垂涎の的であり伝説的にすらなっています。天才的な活字デザイナーであったシェーファーだからこそ、このような美しい書物ができたのでしょう。活字のデザインがグーテンベルク聖書と似ているのは、活字のデザイナーが同一人物のため当然です。ただこの聖詩篇の活字に関しては、シェーファーがグーテンベルクの弟子であった頃に、すでに準備が始まっていたとするのが定説です。現在の色刷りの印刷物あるいは昔の色刷りの木版は、個々の色ごとに版を作り、色の数だけ重ね刷りをします。そのため刷り合わせに高度の技術を要します。この聖詩篇は赤と青の2色刷りの極めて精巧で大きなイニシアル〈図8)がありますが、刷り合わせの精度は最高で色ずれは全くなく、また活字の並び(アラインメント)も完璧です。このイニシアルは人が一度見たら一生忘れられないと言われるほどすばらしいものですが、つい最近まで、その印刷方法に関して学者の意見は異なりました。しかしイギリスのアービン マッソン卿はイニシアルの活字は2-3個のブロックが組み合わされており、ブロックをはずして、それぞれ別の色のインクを付けた後、再びくみあわせて一度に印刷したため全く色ずれが起こらなかったことを解明しました。聖詩篇は何部刷られたか判りませんが全部ベラム刷りで、現存するものはわずかに11部のみです。グーテンベルク聖書のベラム刷り12部とシェーファーの聖詩篇のベラム刷り11部が世界で最も高価な本と言われています。これらのグーテンベルク聖書と聖詩篇のベラム刷りのうち、さらに最も高価なものを一つ選ぶとしたらオーストリア ウイーンの国立図書館にある聖詩篇だと思います。この本は宗教行事に全く使用されたことがなく印刷直後のように美しく、そのため(ヴァージン コピー)と名づけられています。特別な理由で、もし売りだされたとしたら、多分何百億円もするに違いありません。聖詩篇は私の記憶では戦後オ-クションに掛けられたことはないと思いますが、ただ一度だけフランス パリの国立文書館所蔵の二部の内の一部がニューヨークの古書店を通して売られました。もちろん日本には聖詩篇は一冊も入っておりませんが、ばらされたものは1-2葉あると思います。
聖詩篇の印刷後フストとシェーファーは手書きのイニシアルの美しいことで有名な48行聖書(48-line Bible or Fust and Schoeffer
Bible図15、図16)を1462年に印刷しました。この48行聖書はベラム、紙の聖書がそれぞれ半分ずつ、合計およそ80部現存していますが、印刷年、印刷者、印刷地、印刷者マークの入った最初の聖書です。さらに2巻を前提に製作された最初の印刷本です。そのため聖書全体の最後以外に第1巻の最後242枚目の裏(ここは旧約聖書の詩篇の最後のページ)には印刷年、印刷者マークが刷られています。その活字のデザインは美しく、かつ実用的で後代の印刷者に強い影響を与えました。研究者によれば活字のデザインはシェイファーの手書き文字に似ているそうです。手書きのイニシアルはあらゆるインキュナブラの中で最も美しいものと言われ、それを描いた人は、その名前が不明のため研究者、愛書家のあいだでフストマスターと呼ばれています。この48行聖書は1923年から現在まで有名オークションに登場したことはありません。あまりに美しいため手放さなかったと思われます。一般にインキュナブラは500年以上の間に何度も製本され、製本のたびごとに端がカットされ少しずつ小さくなってしまいますが 以下に示す図15と図16の48行聖書は原葉ですが一度もカットされず、いわゆるアンカットの原葉で端は手漉き紙が手漉きされた時のそのままです。 そのため原葉の端は真っ直ぐでなく、 わずかですが波状曲線を描いています。 アンカットのためグーテンベルク聖書の研究の劇的発見として有名な手漉き紙を印刷機に細い針で固定した極めて細い針穴を見ることができます。 グーテンベルク聖書と同様の方法で紙あるいはベラムを固定したのでしょう。 針穴は紙の端から1mmから10mm程度の所にあり、針穴は4隅に一つずつではなく、もっと多数あります。1.0平方センチメ-トルの面積に集中して5-6個あるところもあります。針穴は原葉が本として 綴じて あった端を除いて、すべての端にあります。日本にあるインキュナブラのうち慶応大学のグーテンベルグ聖書はインターネットで拡大して見ると位置決めのためと思われる少し大きめの点と共にピンホールらしきものが確認できます。48行聖書のピンホールは500万ピクセルのデジカメでも撮影が困難ですからピンホールの穴が少し小さいのでしょう。
シェーファー と フストは1465年に48行聖書と同様に美しいCiceroを印刷しました。このCicero(日本では明星大学が所蔵)はシェーファーがグーテンベルクの弟子時代に準備されたものを完成させたものだと言われています。Ciceroはインキュナブラとして多数の印刷者によって刊行されていますから、このCiceroはMainz Ciceroと呼ばれています。フストは1466年に亡くなったためCiceroはフストとシェーファーが共同で印刷した最後の作品となりました。
シエーファー印行の多数のインキュナブラのなかで特徴のあるものの一つは1472年に刊行されたフラビゥス グラテイアヌスの教令集(Decretum of
Gratian 図17、図18)だと思います。この教令集は中心に2カラムの本文を置きその周りに一周あるいは4分の3周〈時には両側)に渡って2カラムの注釈部分を配置したすばらしいデザインのインキュナブラで、これも一度見たら一生忘れません。印刷は赤と黒の2色刷りで、大きなイニシアルは手書きです。中心の本文が注釈に一周囲まれている時は、本文は最高54行、通常54行以下で、注釈は80行です。本文の上に通常6行の注釈が重ねてあります。本文の下に重なってある注釈の行数は最低0行(つまりゼロ行)で通常本文の行数に応じて1行以上になっています。本文が注釈に4分の3周しか囲まれていない時は本文は通常54行でページの一番下まで続き、本文の下には注釈はありません。この場合下側に限っては4カラムの印刷に見えます。本文と注釈文とでは行のピッチが異なり本文の方が行間隔が広いです。このようなデザインは後の教書の印刷あるいは注釈付きの聖書の印刷によく用いられました〈例えばWenssler印行の1482年刊の教書)。印刷デザインに関して文で説明しても何が書いてあるか判らないと思いますから図17、図18をご覧下さい。
グーテンベルクの42行聖書(1455)、Albrecht Pfisterが刷ったと言われていて、グーテンベルクも関係したかもかも知れない36行聖書(1459?)、ストラスブルグのメンテリン(Johann Menterin)の聖書(1460)、フストとシェーファーの48行聖書(1462)がインキュナブラの4大聖書といわれています。
ところでフストが、いかなる方法で印刷技術を手に入れたかについて、我々がどのような感情を持ったとしても、ともかくグーテンベルク聖書を完成させ、シェーファーと共に極めて精度が高く美しい聖詩篇と48行聖書を出版し印刷技術の発展に貢献したことから、それなりの評価はすべきかもしれません。フストと娘婿シェーファーは、お互いに分業していて、シェーファーは印刷業務を、フストは経営と営業を担当していましたが、フストは本の販売のためパリ出張中1466年亡くなりました。シェーファーはフストと共同して生涯に聖詩篇、48行聖書を含めて115種類の本を印刷しました。またフストは世界最初の印刷本のセールスマンだったと言われています。活版印刷の発明者であるグーテンベルクは印刷事業者としては成功したとはいえず、十分な数の後継者を育てることはできませんでしたが、皮肉なことに裁判で争ったフストと娘婿シェーファーは印刷事業者として成功し、多数の印刷工を育てました。彼等は活版印刷技術を秘密にしていましたが、それは長くは続かず、1460年?〈1466年?)にはストラスブルグでメンテリン(Johann Mentelin)がメンテリンの聖書を印刷し、1461年にはマインツでグーテンベルクの他の弟子らが印刷所を開き、1462年に内乱が起きたことを、きっかけに印刷技術は怒涛のごとく広まって行きました。イーゼンブルグを支配していたデ゙イエテル伯爵とナッソウを支配していたアドルフ伯爵が争いマインツは市全体が戦場となり、フストとシェーファーの印刷所の多数の印刷工はマインツで働けなくなりました。マインツはライン川沿いにあり、当時の交通は水路が中心であったため、これらの印刷工はライン川沿いの都市バンベルグ、ストラスブルグ、ケルン、ニュールンベルグ及び遠くはイタリアにまで分散し活版印刷は伝わっていきました。そしてついには、この技術は、ドイツのギュンター ツァイナー(Gunther Zainer)、ハインリッヒ キンテル(Heinrich Quentell)、アントン コーベルガー(Anton
Koberger)、スイスのヨハン フローベン(Johann Froben) イタリアのConrad Sweynheym, Johannes De Spira, Nicolaus Jenson, イギリスのウイリアム カクストン(William Caxton)、フランスClaude Garamond, Robert Granjon, Henri
Estienne等の先駆者に伝わり、その後またたくまにヨーロッパに広く伝播しました。コーベルガーは挿絵の非常に多いニュールンベルグ年代記(Nuremberg
Chronicle ドイツ語1493、ラテン語1493)の、そしてカクストンはチョーサーのカンタべリー物語(Canterbury Tales 1478、1483)ポリクロニコン(Polychronicon, 1482、図19)等の、フローベンは貧者の聖書(Poor Man's Bible 1491)の印刷者として、よくご存知のことと思います。15世紀末までにヨーロッパ全土で約250都市の1000箇所で活版印刷がおこなわれるようになりました。そのため15世紀末までの50年間におよそ四万点(もっと少ないと言う説もあります)の活版印刷本が出版されました。この15世紀に出版された本を揺籃期の本と言う意味でインキュナブラ(英語のインファント)と呼ばれ愛書家に珍重されています。
前述のようにグーテンベルク、フスト等は当時のドイツにおいて手書き本に使用されていた、やや装飾的なゴシック形式の活字を用いましたが、イタリアの活版印刷では例外を除きほとんど初期から、より民衆的で簡潔なローマ形式のデザインの活字で印刷されました。特にイタリアのNicolaus Jenson(c1420-1480 Venice )の1470年の印行は.現在の英語のアルファベットのデザインと、ほとんど変わりません。このように現在のアルファベットのデザインはイタリア人の功績ですが、このことは、ルネッサンスがイタリアに始まったことに関係があります。
活版印刷はドイツで誕生し、イタリアで発展しフランスで爛熟したと言われていますが、16世紀のイタリア系フランス人のビブリオマニア愛書家 ジャン グロリエ(Jean Grolier
1479-1565)はビブリオマニア(フィロビブリスト)の中では歴史上、最も有名な人です。彼はミラノ公国の財務官、ローマ教国大使を歴任しましたが、イタリアの印刷家 アルドゥス マヌチゥスを援助しアルドゥスに多数の古代ギリシャ、ラテンの古典の複刻を依頼し出版しました。愚神礼讃を著したので有名なエラスムスは、若い時、アルドゥスの印刷所で校正の仕事をしていましたが、グロリエの事を (グロリエは本に何も負うところはないが,本はグロリエに限りない栄光を与えるだろう) と言ってグロリエを礼讃したとのことです。グロリエはまた多数のインキュナブラを収集しました。彼が集めたインキュナブラは一説には8000冊にものぼると言われています。彼は、彼の蔵書の表紙に自分自身で考えた幾何模様、唐草模様(スクロールして下を見る)のデザインで装丁し、表紙の下に グロリエとその友人のもの Io.Glolier et
amicorum と金箔文字で入れたそうです。 なんとも奥ゆかしい話ではありませんか。後に彼の蔵書はグロリエ本と呼ばれるようになりました。前述のエラスムスの予想どおり、彼の名は、インテリ層の間で歴史に残り、グロリエの (友人〉 になりたいため、グロリエ本は、後世のビブリオマニアのあいだで垂涎の的になっています。海外ではグロリエ本を手にいれた愛書家は、そのお披露目パーテイーを開くほどだそうです。また最も権威ある愛書家グループはグロリエクラブと言って彼の名を冠しています。グロリエクラブは米、欧のみならず日本にもあります。
活版印刷史上最も重要なのは、グーテンベルク、シェーファー、フストですが、次をあげるとしたら前記のグロリエと関係のあったアルドゥス マヌチゥス(Aldus Manutius
1450-1515)です。アルドゥスは本来ギリシヤ、ローマの古典研究の学者でした。実際若い時、カルビの王子等の家庭教師をしていました。彼はできるだけ多くの古代ギリシャ及び古代ローマの手書き本の古典を出版し、可能な限り多くの人々に読んで欲しいと願っていました。彼はまずヴェネチアにアカデミーを設立し学者を集めました。そして学者等と共に古典の手書き本を収集整理し、最も信頼のおける写本を定めることに充分時間をかけました。そのため最初の本が出版されたのは、彼が44歳の1494年でした。彼が出版したのはアリストパネス、アリストテレス、アイスキュロス、ソフォクレス、プラトン、へロドトス、ピンダロスを含む多数の古典で、優れた書籍の出版に関しては、彼以上の偉業をなした人は歴史上いないと言われています。実際500年前に彼が多数の古典写本を収集整理し出版しなかったら、優れた古典の多くが失われていたでしょう。アルドゥスの出版した本も同時代の本と同様に大型のフォリオ版で高価でした。そのため後に彼は初めて廉価な小型の本、現代風にいえばポケット版の本を多数出版しました。これらの本の大きさは、代表的なもので、およそ縦14cm.横10.5cmでした。これらのポケット版の本は、本の普及に革命を起こしたと言われています。アルドゥスの錨に巻きつくイルカの印刷者マークは、あまりにも有名で西欧では後代の印刷業者、書籍店の多くが、そのマークをまねていますから読者もそれに似たマークを見たことがあるかもしれません。
日本においては戦前グーテンベルク聖書は影も形もありませんでした。戦後10年以上たって初めて天理大学の図書館にグーテンベルグ聖書一冊六百四十ニ枚の内の、たった一枚が、しかも破損した紙刷りの一枚が輸入され納入されました。貴重な本のバラしたページの一枚のことを一葉、零葉、単葉、原葉などといわれますが 一葉 (英語で a
leaf)と呼ばれる事がもっとも多いとおもいます。その後いくらかの大学図書館、印刷会社がこの聖書の紙刷りの一葉ずつを輸入して納めていますし、天理大学も原葉を買い増したようです。戦後一葉ずつのオークションを除いて、製本されているグーテンベルグ聖書が著名なオークションに掛けられ売られたのは、私の記憶では少なくとも、ニ度あったとおもいます。戦後の一回目はニューヨークのGeneral Theological Seminaryが所蔵していた紙刷りの完本で1978年4月7日クリステイーズのオ-クションに掛けられ、およそ220万ドルでドイツのシュトットガルトのWurttembergische Landesbibliothekが落としました。二回目は紙刷りの不完本でした。この二回目の不完本を1987年10月22日のクリステイーズのオークションで落として購入したのが、日本最大の書籍店 丸善でした。価格は、この時点で聖書としてのオークションレコードだったそうです。不完本とはいえこの時初めて日本に製本したグーテンベルク聖書が入ってきました。丸善はこの聖書を$5.390,000つまり当時のレートの日本円で約八億円で購入したとのことです。丸善が購入したこの聖書は、Dohenyと言う人が持っていためDoheny
copyと呼ばれていますが、Dohenyが1950年に、この聖書を購入したときは、およそ$70,000であったことから37年間で名目上77倍に値上がりしたことになります。ドルのインフレを考慮に入れれば、実質的には10数倍程度の値上がりと思われます。このDoheny
copyは完本六百四十ニ枚の内、約五割の324枚からなり旧約聖書の一部分の聖書です。不完本のため、もちろん装丁は一冊です。丸善はあまりこの聖書を公開しませんでしたが、名古屋でデザイン博覧会が開かれた時、展示されると報道されましたので、早速でかけましたところ確かにガードマン二人付きでガラスケース内に本物が展示されていました。二度と見られないかもしれないと思い、二週間後に再び行ったとき、ガードマンが一人もいないため、おかしいなと思ってガラスケースをのぞいた所、本物ではなく、聖書の複刻版がおいてありました。したがってこの時少なくとも一~ニ週間の間、公開されたことはたしかです。その何年か後1996年に、この聖書は丸善から慶応大学に売られ、安住の地として慶応大学の図書館に納められています。この聖書を丸善がいくらで売ったか定かではありませんが、いいかげんな話しである事を承知で書きますと、M書店の関係者からの情報では約10億円とのことでしたし、他方東京の神保町の古書店街では、15億円程度だったとの噂がありますが本当の事は全く判りません。1987年10月から2002年の現在まで15年間の間、一葉ずつを除いて、本としてのグーテンベルグ聖書は完本、不完本にかかわらず、有名オークションに掛けられたことはありません。もし現在グーテンベルグ聖書の完本がオークションに掛けられたとしたら、ベラム刷りでなく紙刷りでも少なくとも70億円以上にのぼると推定されています。
前述のごとく貴重な本をバラした一枚の事を一葉、零葉、単葉、原葉などと言いますが、一葉ずつに分けられたグーテンベルク聖書には、それらの来歴、分けられた理由と時期の明確なものと、来歴も分けられた時期も理由もほとんど判らないものとがあります。来歴、理由、時期の判らないものには、時には にせもの も含まれており、当然来歴、理由、時期の明確のものが高く評価されています。 アメリカのガブリエル ウエルズ(Gabliel Wells)という人(出版社?)は刷った順番が比較的早いため極めて鮮明で貴重な紙刷りのグ-テンベルク聖書を1920年に手に入れましが、残念ながら不完本で欠ページの多いものでした。高価なグーテンベルク聖書を購入したため、お金がなくなったためかどうか判りませんが、貴重な聖書を 一葉ずつにバラしてしまいました。彼は1921年にエドワード ニュートンという人の短いグーテンベルグ聖書についての解説付きの A leaf of the Gutenberg Bible
(1450-1455) という、青いフルモロッコの表紙の本をニューヨークで出版し、その末ページに本物のグーテンベルク聖書の一葉を付けて売り出しました。ウエルズのグーテンベルク聖書の原葉(一葉)は、その来歴、バラした理由、時期が、最も明確で原葉を含んでいる本が証明書となり、一番信用のおける、原葉と言われています。ウエルスの原葉をふくむ本は100部以上あると思われます。
以下に写真で紹介する原葉も、上記のウエルズのグーテンベルク聖書の原葉です。日本国内のグーテンベルク聖書のバラした原葉は、早稲田大学がベラム刷り一葉を所蔵、紙刷りは天理大学の数葉を始め、明星大学、京都外国語大学、甲南女子大学、近畿大学、関西学院大学(2葉、非常に重い スクロ-ルして探す)、大阪青山短期大学(2葉)、東海大学、筑波大学(元の図書館情報大学)、名古屋商科大学、東北学院大学〈2葉)、広島経済大学、印刷博物館、凸版印刷博物館、水野印刷博物館その他の大学、印刷会社、個人等により合計ニ十葉以上所蔵されていると思われます。また1985年に、丸善が一葉のニ分の一程度の大きさのベラム刷りの断片を輸入したことがありますが、これが現在 慶応大学により所蔵されています。グーテンベルグ聖書のベラム刷りは早稲田大学の一葉と慶応大学 所蔵の一葉の断片が日本に現存するただふたつのものだと推定しています。ただベラム刷りの原葉は他の本の補強に使われていたものが後に発見され補強の本から丁寧にはがされたものが多く一般的には極めて保存が悪く印刷面も変色が激しいのが普通です。早稲田大学のベラムの一葉もベラムの一葉としては保存の良いものだと思いますが、写真で見ただけで広範囲の変色が確認できます。紙の原葉に関しては保存は良いものから悪いものまで各種あります。製本されていた聖書をバラして原葉にしたものは概して一見保存が良く見えます。これはもちろん、もともと、かなり保存が良かったのでしょうがバラした人が売り出す前に専門家に依頼して修復したためだと思います。ベラムと異なり紙は破損も変色も容易に修復可能だからです。さらに紙の原葉は旧約聖書、外典、偽典のページがほとんどで新約聖書のページは極めて稀です。もともとウルガタ聖書においては完本においても新約聖書のページ数は非常に少なく全体のおよそ6分の1です。それ以外に教会において新約聖書の部分が良く使われ失われた、ためかもしれませんが、原葉においては市井に出まわっている新約聖書の原葉は非常に少なく、原葉全体の数の15分の1から20分の1程度だと推定されます。慶応大学のグーテンベルク聖書は旧約聖書の一部分の不完本のため新約聖書は含まれていなく、日本で最初に輸入された天理大学の一葉も、また早稲田大学所蔵で日本唯一のベラムの一葉も旧約聖書です。従って全調査したわけでは、ありませんが日本に20枚以上の原葉があるとしても、確率的に推定すれば日本にある新約聖書はせいぜい一葉からニ葉程度でしょう。グーテンベルク聖書の原葉は、およそ3分の1がグーテンベルク聖書の第Ⅱ巻(旧約の残りと新約)から取られたものであり、また慶応大学の聖書は第Ⅰ巻(旧約の前半)のため、日本にある原葉のうち、かなりの枚数が日本唯一で、それなりの学問的価値も、希少価値もあります。いずれにせよグーテンベルク聖書は原葉もほとんどのものが大学、図書館、その他の公共施設に所蔵されてしまいアメリカの研究者は原葉においても個人所有で将来マーケットに出まわる可能性のあるものはベラムでは3、紙で50を超えることはないと報告しています。この報告から時間もたっていますから現在ではもっと少ないでしょう。さらにベラムの原葉は過去50年間にわずか2枚しか売り出された事がないそうです。早稲田大学のベラムの一葉の購入および慶応の一葉の2分の1の断片の購入等は50年以内であることを考えると2枚はいささかオーバーだとしても以後ベラムの原葉を手に入れることは、ほとんど不可能でしょう。また紙の新約聖書の原葉も入手がかなり難しいと思います。製本された48部の完本、不完本に関しては、これらも、ほとんどすべて公共図書館、大学図書館、公共施設に納められていて私の記憶では個人所有のものはアメリカ ニュージャージー州のプリンストンのプライベート図書館であるSchaide
Libraryの1部のみだと思います。しかし、この図書館は個人所有と言っても、つい先年に36行聖書を買い増しヨーロッパ以外で42行、36行、48行、メンテリンの4大聖書を所蔵している唯一の図書館ですから資金豊富で今後グーテンベルグ聖書を売り出すことはないでしょう。
美しくて貴重なグーテンベルク四十ニ行聖書はグ一テンベルグとシェ-ファー、フストが関係して印刷されたものですが、シェーファー フストは手書きのイニシアルが美しいので有名な48行聖書を1462年に印刷しました。この48行聖書を明星大学が所蔵しており、これが日本にある完本あるいは完本に近い印刷本としての最も古い聖書だと考えられます。この48行聖書を10年間で売り切るとシェーファーは1472年に別の48行聖書を印刷しました。この1472年刊の48行聖書は明星大学、モリサワ カンパニー、京都外国語大学が所蔵していますが、これらが日本にある2番目に古い完本あるいは完本に近い印刷本としての聖書だとおもいます。これは余談ですが、前述の英国のカクストン印行のカンタベリー物語は、初版 12部?、2版 6部?しか現存せず、極めて貴重です。カンタベリー物語の初版は、1998年7月にインキュナブラのオークションレコード4,621,500英ポンド($7,565,396)で落札されました。ところで 甲南女子大学 のサイトにはこのカンタベリー物語の初版を1部所蔵しているとの記載がありますが、全体で8葉からなる不完本を1部所蔵しているとの事です。また関東地方の個人が保存の良い2版を所蔵しています。 世界から見れば田舎の日本に これらの貴重なインキュナブラが所蔵されているのは本当に驚きです。
よくここまで読んでくださいました。どうもお疲れさまでした。もしかしたら最後までお読みいただいたのは、あなたが最初かも知れません。しかしこれであなたはまちがいなくグ-テンベルク通でありグーテンベルグ聖書通です。このサイトは日本語のものではグ-テンベルク聖書に関して最も詳しく説明しているものの一つだと自負していますが、残念ながら、その内容自身が、たいしたことがないのが最大の欠点です。何の得にもならないのに、このような長いサイトを作るのは人は馬鹿げていると思うでしょうね。私自身も実は全文を読む人は誰もいないと確信しています。
ブリテイッシュ ライブラリー と テキサス州立大学及びゲッチンゲン大学のサイトで聖書の全ページの拡大写真を見ることができます。 特にブリテイシュ ライブラリィでは紙刷りとベラム刷りの2部を実物大以上の大きさで全ページが見られます。 ゲッチンゲン大学に関してはクリックして出たサイトでGottingen Gutenberg Bibleを選んでクリックしてください。 ここでもかなり大きく見ることができます。 テキサス大学の画面も、上手に操作すればアルファベットが十分確認できる大きさです。 また慶応大学の聖書のサイトでも上巻〈旧約聖書の一部分)のみですが全ページを見ることができます。ただし各ページの指定した一部分の拡大しか見えずページ全体の拡大写真は見えません。さらにその一部分の拡大写真をプリントアウトする事はできませんし、強拡大するには、ずいぶん時間がかかります。他の大学の聖書の拡大写真はプリントアウトする事ができます。
↑図1 グーテンベルク聖書(Gutenberg Bible 42-line Bible 1455?)の一葉 1ページが2カラムで1カラムが42行で印刷されているため42行聖書とも呼ばれています 黒色部分が印刷です 大きなイニシアルを含めて黒以外のものはすべて手書きです 一葉ずつにバラされた聖書で6行分の大きなイニシアルのあるものは稀で貴重なものです その6行分の大きなイニシアルが表ページ(recto)の冒頭にあるのは全体642枚のうち10枚以下で さらに貴重です この原葉は聖書のⅠ巻(旧約聖書の一部分)の239枚目です ここをクリックして ブリテイッシュ ライブラリーのサイトを呼び出しⅠ巻の239枚目をだし 上の写真と同じページのブリテイッシュ ライブラリイの写真とを 比較して見て下さい。
↑図2 イニシアルの拡大写真 手書きです このイニシアルはアルファベットの何でしょう? イニシアルのデザインはそれぞれの聖書で異なり これは少し複雑な例です 図13の簡単な例と比較してみてください しかし上の写真の例より大げさで はるかに複雑なものもあります
↑図3 文字の拡大写真 個々の文字のアルファベットの種類が判りますか? 上の写真の 3行目に印刷の大文字に重ねて 手書きの赤線がかすかに見えます 大文字に重ねて手書きした赤線は図12を見ると良くわかります。
↑図4 原葉の裏ページ デジカメで正面から撮らなかったため、少し画面が歪んでいます。
↑図5 裏ページのイニシアルの拡大写真
↑図6 アメリカのPierpont Morgan Libraryのグーテンベルク聖書のベラム刷り本の或るページの一部分。 図6と図7は同じページの同じ部分です。それにもかかわらず、お互いに一行目の最後と二行目の中ほどの単語の活字が異なります。図6と図7において単語表現が異なるのは誤植ではなく例えば正式のスペルと省略スペルの違いと思われます。
↑図7 アメリカのPierpont Morgan Libraryの紙刷り本のグ-テンベルク聖書の図6と同じページの同じ部分。お互いに一行目の最後とニ行目の中ほどの単語の活字が異なります。
↑図8 世界で最も美しい印刷本と言われているシェーファー、フスト印行の聖詩篇(Psalter in Latin)のイニシアル〈1457年刊) この本は世界で2番目に鉛鋳造活字により印刷された本と言われています 現存11部のみで すべてベラム刷りです イニシアルは手書きではなく私の記憶では金属版だと思います イニシアルは赤と青の色刷りで大きさはおよそ縦9.5cm横10.5cm 大きなB〈ビー)のイニシアルが青、Bの中と外の細かい模様が赤です。このイニシアルは一度見たら一生忘れません。本そのものは本文の黒を含めて赤、青、黒の3色刷りです このシェーファー フストの聖詩篇は複刻版ですら ほとんど手にいれることは不可能です カラーで見たい方はここをクリック 別の写真を見たい方はここをクリック Art of the printed book 1455-1955 より
↑図9 活字の幅を変えることのできる活字のボデイーつまり柄の部分の鋳型 二つのL型のブロックが組み合わせてあります ブロックをズラすことにより鋳造したときの活字の幅が変わります また活字鋳造後ブロックをバラすことで容易に活字をはずせます 図10に幅をせばめたときの鋳型を示します この鋳型は活字の文字面の鋳型つまり母型と組み合わせて使います
図10 幅をせばめた時の活字の柄の部分の鋳型 図9に幅を広げたときの鋳型を示します
↑図11A グーテンベルク聖書のイタリア製の手すき紙の透かし模様(watermark) 牛の頭部がさかさに見えます グーテンベルク聖書の紙刷り本では全体の70パーセントに牛の頭部の透かし模様の入ったイタリア製の手すき紙が使われています 文字は表と裏が重なっていますから判読は困難です 牛の頭部の透かし模様のシェーマを図11Bに示します グ-テンベルク聖書では この例以外に丸い茎の葡萄(図11D)あるいは茎の太めの葡萄(図11C)の透かしの入ったイタリア製の手漉き紙と駈けている牛の透かし(図11E)の入ったフランス製の手漉き紙が使われています フランス製の手漉き紙はⅡ巻(旧約聖書の残りと新約聖書)に部分的に使われました グ-テンベルク聖書はフォリオサイズのため一枚の手漉き紙を一回折ってそれを本の2枚(4ページ分)としました 一枚の手漉き紙には透かし模様は一つしかないためグーテンベルク聖書の原葉には透かし模様のあるものが半分で残り半分には透かし模様は有りません この写真の原葉は透かし模様のある例です 牛の頭部の透かし模様の入ったイタリア製の手漉き紙はグーテンベルク聖書のみならずフスト シェイファー印行の48行聖書を始め多くの初期のインキュナブラに使われています。
↑図11B 紙刷りのグーテンベルク聖書の牛の頭部の透かし模様のシェーマ グーテンベルク聖書には全体の70%に牛の頭部の透かし模様の入ったイタリア製の紙が使用されています 。
↑図11C 茎の太めの葡萄の透かし模様のシェーマ
↑図11D 茎が丸くなっている葡萄の透かし模様のシェーマ
↑図11E 駈けている牛の透かし模様のシェーマ この透かし模様の入っている紙はフランス製で第二巻(下巻)の一部分に使用されました。
↑図12 グーテンベルク聖書においては聖詩篇の部分以外では大文字は黒で印刷され、その上に手で赤線を重ねて書いています。この例とは異なり、一般的ではありませんが図13のようにすべて黒の大文字のものもあります。British library より
↑図13 グーテンベルク聖書のこの例では手書きの巨大なイニシアルを除いて大文字はすべて黒です。大文字は左カラムの大きなイニシアルの真下、右カラムの3行目、6行目、9行目にあります。多くのグーテンベルク聖書において、大文字は活字で黒色に印刷した上に手書きの赤線を重ねて書いてあります(図12)。上のような黒のみの大文字は例外と言えるでしょう。ただし聖詩篇の部分においては大文字はすべて手書きで、活字印刷は小文字のみです〈図14)。巨大なイニシアルの上の赤い行は印刷ではなく手書きです。1ペ-ジが40行、41行を含む印刷初期のグーテンベルグ聖書においてはごく一部分において赤と黒の色刷りもありますが色刷りは途中で中止し印刷は黒色のみで赤は手書きに変えたようです。The Count Oswald Seilern Collectionより
↑図14 グーテンベルク聖書の聖詩篇のところでは大文字は印刷されておらず、すべて手書きです。そのためか一葉ずつの聖書では聖詩篇の部分は他の部分より高価です。赤い文字が手書きの大文字です。British
Library
↑図15 手書きのイニシアルが美しいので有名なシェーファー フスト印行の48行聖書(48-line Bible or Fust and Schoeffer
Bible1462年刊)の紙の一葉 斜め下から撮ってあります この48行聖書はベラム 紙の聖書がそれぞれ半分ずつ 合計およそ80部現存していますが 印刷年 印刷者 印刷地 印刷者マークの入った最初の聖書です さらに2巻を前提に製作された最初の印刷本です そのため聖書全体の最後以外に第1巻の最後242枚目の裏(ここは旧約聖書の詩篇の最後のページ)には印刷年 印刷者マークが刷られています この聖書の手書きのイニシアルは あらゆるインキュナブラの中で最も美しいものと言われ それを描いた人は、その名前が不明のため研究者、愛書家のあいだでフストマスターと呼ばれています 上に示す手書きのイニシアルは残念ながらフストマスターによるものではないと私は判断しています フストマスターによるものは2行のイニシアルはもっと簡単に書いてあります フストマスターの5行のイニシアルが非常に美しいため それに対抗して2行のイニシアルも美しく少し凝って描いたのでしょう 各文章の下には かすかに文の位置決めの平行線が見えます 少し露出過剰ですが本当に美しくて魅力的なインキュナブラです 研究者によれば活字のデザインは現在も残っているシェーファーの手書き文字に似ているそうです 48行聖書は1923年から現在までの80年間有名オークションに登場したことはありません 一般にインキュナブラは500年以上の間に何度も製本され、製本のたびごとに端がカットされ少しずつ小さくなってしまいますが この図15と図16の48行聖書は原葉ですが一度もカットされず いわゆるアンカットの原葉で端は手漉き紙が手漉きされた時のそのままです そのため原葉の端は真っ直ぐでなく わずかですが波状曲線を描いています アンカットのためグーテンベルク聖書の研究の劇的発見として有名な手漉き紙を印刷機に細い針で固定した極めて細い針穴を見ることができます グーテンベルク聖書と同様の方法で紙あるいはベラムを固定したのでしょう 針穴は紙の端から1mmから10mm程度の所にあり針穴は4隅に一つずつではなく もっと多数あります これらの針穴は原葉の本として、とじて あった端を除いて、すべての端にあります 1平方センチメートルの面積以内に5-6個の針穴のある所もあります 日本にあるインキュナブラのうち慶応大学のグーテンベルグ聖書はインターネットで拡大して見ると位置決めの少し大きめの点と共にピンホールらしきものが確認できます 48行聖書のピンホールは500万ピクセルのデジカメでも撮影が困難ですからピンホールの穴が少し小さいのでしょう。
↑図16 シェーファー フスト印行の48行聖書(1462年刊)の別の一葉の例 文の位置決めの横平行線がよく判ると思います 手書きのイニシアルは本来2行分のイニシアルの所に大サービスして異常に大きく4行分の高さに書かれています グーテンベルク聖書の2行のイニシアル(図5)と比較すると その違いがよく判ると思います イニシアルの回りの線状の装飾はFlourishと言いますが図15 図16共に全体は写っておらず それらの画面からはみ出て はるかに長く上下に続いています 48行聖書においては多くの場合グーテンベルク聖書と同様に大文字は黒の印刷の上に重ねて手書きで赤線が書かれていますが(図12) この例では大文字も黒の印刷のみです 48行聖書もグーテンベルク聖書と同様 あるいは それ以上に聖書が印刷ではなく 手書きだと思われたようです 文字のデザインがシェーファーの手書き文字に似せて作られたためかも知れません この原葉の紙質はグーテンベルク聖書より良く 牛の頭部の透かし(watermark)があります 従って使用した用紙の製作者はグーテンベルク聖書の用紙の製作者と同じでしょう〈図11) この48行聖書は約10年間で完売したそうですが安価な紙刷りから先に売れていったそうです 48行聖書の外国の学者による1993年のセンサスでは完本 不完本 合わせて世界中に79部 存在しているとのことですが 日本にあるとは報告されていませんでした しかし実際は完本か不完本か判りませんが明星大学に一部あるそうですから驚きです。 他に原葉が少なくとも5葉は日本にあると思います。
↑図17 シェーファー印行 グラテイアヌスの教令集(教書、Decretum of Gratian on vellum 1472)のベラム刷りの原葉 中央が主テキストで その回りが注釈です 主テキストの活字は1462年刊の48行聖書〈図16)と同じです 注釈の活字はそれより小さいです この特徴あるデザインは一度見たら一生忘れません このデザインは後代の注釈付きの書物 あるいは原語に翻訳付きの書物の印刷によく用いられました ベラム刷りの原葉は現在では極めて入手困難で貴重ですが 少なくとも日本に3葉は入ってきていると思います。
グラテイアヌスの教令集の別の写真はここをクリック
↑図18 グラテイアヌスの教令集の拡大写真 右下が主テキスト 左上が注釈です 赤と青のイニシアルは手書きですが このイニシアルの所ではベラム刷りのため かすかに裏の印刷が透けて見えます ベラムは硬くゴワゴワになっていない時 紙と異なり少し革の匂いがします 主テキストの回りの注釈はそのページの主テキストの注釈が書かれており 別のペ-ジの注釈を見なくても良いように書かれています
↑図19 カクストン印行のポリクロニコン(Caxton, Polychronicon 1482) 活字のデザインは大陸と異なり極めて特徴的で一目見れば容易にカクストン印行と判ります 42行聖書および48行聖書に比べて極端に紙の質が悪く また活字の精度も悪いと思います 当時のイギリスは田舎だったのでしょう。
ポリクロニコンの別の写真はここをクリック
グーテンベルグ聖書とインキュナブラ関連のリンク先の表
グ-テンベルク聖書の全ページを見る→ ブリテイッシュ ライブラリイの聖書(2部) ゲッチンゲン大学の聖書 テキサス大学の聖書
慶応大学(上巻 旧約聖書の一部分のみ) アメリカ議会図書館の聖書 ゲッチンゲン大学に関しては出た画面のGottingen Gutenberg Bibleを選ぶ
グ-テンベルク聖書の冒頭のページ→ 40行のテキサス大学 40行のオックスフォード大学 40行の慶応大学 40行のペルプリン神学校〈ポーランド) ブリテイッシュ ライブラリーの紙とベラムの二つの聖書とゲッチンゲン大学の聖書の冒頭のページは全ページを見るサイトからアクセスして下さい
冒頭のページが40行であるグーテンベルク聖書の41行になっている10頁つまり5枚目の裏(verso)→ここをクリック〈テキサス大学)
グーテンベルク聖書を含む多くのインキュナブラの写真と その説明→ここをクリック
グ-テンベルクとグ-テンベルク聖書の英語の文章による解説→ 時代背景 グ-テンベルク博物館 聖書総合ブリテイッシュ ライブラリイ
グ-テンベルク聖書のすべての所蔵機関の表(日本語)→ ここをクリック
図書館〈英語)→聖書3部所蔵のピアポント モルガン ライブラリイ シェイクスピア収集のフォルジャー図書館
4大聖書所蔵のScheide Library(すべて英語)その1 その2 非常に重いその3 写真付き
活字の父型(punch) 母型(matrix) 聖書の印刷機の図〈文は英語)→ ここをクリック
グーテンベルクが印刷したかもしれない免罪符の写真→ ここをクリック
グーテンベルクが1455年以前に印刷したと思われる文書〈簡単なラテン語の文法書か?) Donatus Ars Minor の写真→ ここをクリック
へルマスペルガー公正証書〈英語)→ ここをクリック
フスト シェーファー印行の聖詩篇〈1457年刊)の写真→ その1 その2 その3
グーテンベルク? フメリー? シエーファー?による印刷と言われているカトリコン(1460年?刊)の写真1 写真2
手書きのイニシアルが美しいので有名なフスト シェーファー印行の48行聖書〈1462年刊)の写真→ その1 その2 その3
その4 その5
フスト シェーファー印行の美しいCicero(1465年刊)の写真→その1 その2
シェーファー印行のグラテイアヌスの教令集(Decretum of Gratian 1472刊)の写真→ここをクリック
1472年刊のシェーファー印行の教令集のデザインの影響を受けた1482年刊のWessler印行の教書の写真→ここをクリック
Albrecht Pfisterの印刷?と言われている36行聖書〈1459年刊?)の写真→ ここをクリック(かなり長くスクロールして探す)
4大聖書〈英語)→ ここをクリック
ニコラゥス ジェンセン印行の1470年刊本のロ-マ形式のフォント→ ここをクリック
多数のインキュナブラ(15世紀の印刷本)の写真のサイト→ここをクリック
ジャン グロリエの解説〈英語)→ここをクリック
アルドゥス マネチゥスの説明(英語)→ ここをクリック
アルドゥス マネチゥスのポケット版の本の写真(オックスフォード大学)→ここをクリック
グーテンベルク聖書の日本の原葉の写真→ ベラムの一葉〈早稲田大学) 関西学院大学のニ葉(PDFのため非常に重い スクロールして探す) 広島経済大学の一葉
ウイリアム カクストン印行のチョーサーのカンタべリー物語〈1478年刊)の写真→ ここをクリック
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シエイクスピアのフォリオ グーテンベルク聖書〈上巻のみ) カクストンのカンタべリイ物語のクリステイーズのオ-クション価格
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